3/10 マタイの福音書26 章36 46 節「ゲツセマネの祈り」 小池 宏明 牧師

今回は過ぎ越しの食事(最後の晩餐)の後、イエス様と弟子たちが祈る場面である。彼らは、食事の後に、オリーブ山の一角ゲツセマネの園に到着した。ゲツセマネとは「油しぼり」を意味する。オリーブから油をしぼった場所に由来しているだろう。イエス様はこの場所で、汗をしぼり出すように祈られた。
*苦悩する主イエス
37-39 節「そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」イエス様の死ぬほどの悲しみとは、十字架上の苦しみや痛み以上に、父なる神様から見捨てられることであった。だからこそ主はこの杯を過ぎ去らせてほしいと願った。また、父なる神様の御心のままに全うしたいという願いもあった。主イエス様は祈りの格闘の中で、十字架の苦しみと父なる神様に見捨てられる悲しみを受け入れる決意を固めたのだ。私たちも、主の御心と自分の心とが一つになるための祈りを目指したい。
*誘惑に陥らないように祈り続ける
弟子たちは、主イエス様と共に祈ることができず、眠ってしまった。弟子たちが祈り続けることができなかったのは、十字架を目前に控えたイエス様のことばを深刻に受け止めていなかったからだ。これは、他人ごとではない。40 41 節「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。・・・」」私たちが根気よく祈り続けることを諦めてはならないのは、誘惑に陥らないためである。「睡魔」のような悪魔が、私たちの祈りを妨害している。だからこそ、主イエス様は「祈りなさい」と命じるのだ。ローマ人への手紙8 章26 節「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」私たちは弱いので、「自分の力」では祈り続けることができない。私たちは御霊の助けを頂きながら、聖霊に執り成して頂きながら祈り続けたい。