3/17 マタイの福音書27 章15 26 節「正しい人が十字架へ」 小池 宏明 牧師

主イエス様はゲツセマネの園において逮捕され、大祭司カヤパが招集した最高法院で神への冒涜罪で死刑の判決が出た。ところが、ローマ帝国に支配されていたユダヤ地方では、当時の総督ポンテオ・ピラトによる死刑判決が必要だった。
*ピラト
イエス様の周りにいる3 種類の人間の姿を取り上げる。一番目は、イエス様が死刑に値する罪を犯していないことを知りながら、無罪放免できなかったローマ総督ピラトである。(18 19 節、24 節)ピラトは、ユダヤ地方で暴動が起これば、自分の責任になり、政治的な失態となることを恐れて、安易な打算に逃げた。
今日でも、イエス様の教えは真理であり、イエス様は罪のない正しい人で、救い主であることを知りながらイエス様を信じてキリスト者(クリスチャン)になると自分の仕事や出世の邪魔になるのではないかとか、他人から特別な目で見られるのではないか、自由が制限されるのではないかなどと打算的に考えて、なかなか信仰告白ができない人々がいる。しかし、信仰の告白は永遠のいのちに関わることであり、あとで後悔しないようにしたい。
*ユダヤ人指導者と民衆
二番目は、イエス様を葬り去ろうと並々ならぬ決意を固めているユダヤ人たちである。彼らは、善悪の判断が付かないほどに頑なな心になっていた。彼らは25
節のようにイエスを処刑した責任を取るとまで発言した。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」何度も何度も主の御心が示されているのに、何回も信仰告白のチャンスがあるのに、頑なにあるいはやんわりと拒否し続けているということはないだろうか。罪の身代わりとなれるのは、主イエス様の他にはいない。イエス様が与えて下さる天の御国への道を逃すことがないように、お願いしたい。
*バラバ
三番目は、イエス様の身代わりに、解放された死刑囚バラバ・イエスである。(16 17 節、26 節)バラバは、死刑になることが決まっていたが、解放された。主イエス・キリストが身代わりになったようなものだ。このことは、私たち罪人が誰であっても、救い出されることを例えているだろう。しかも、バラバは死刑を逃れるために努力したわけではない。棚ぼたのように、赦され、解放されて、自由の身になった。私たちだって、何かしなければ、救われないなどという条件が必要ではない。主イエス・キリストが与えて下さった恵みを「ありがとうございます」と受け入れるだけで救い出される。