3/3 マタイの福音書26 章14 30 節「キリストの契約の血」 小池 宏明 牧師

教会暦では、受難節の期間を過ごしている。今回は、マタイの福音書が記している「最後の晩餐」におけるイエス様の言葉に注目する。
*ユダの裏切りは御心の成就
今日の箇所は、弟子の一人イスカリオテのユダが、イエス・キリストを銀貨30
枚で裏切る場面から始まる。(14 16 節)当時、奴隷の値段が銀貨30 枚と言われていた。主イエス様の命は、奴隷と同じに扱われた。ユダは、12 弟子の一人で、主イエス様が任命されたが、主の任命が失敗だったのではない。弟子のユダは昔からの預言の御ことばが実現するために選ばれたのだ。サタン(闇)の力が、ユダを捕えて動かしているように見えるが、主なる神様は、闇の力さえも利用して、キリストが十字架に向かうという御心を成している。私たち、クリスチャンたちは、主イエス様の弟子となるように召されている。決して、主イエス様を裏切るために、救い出されたわけではない。私たちは、ユダの言動を見て、自分の言葉や行動が、主イエス様への裏切り行為になっていないか、自らの心をよく点検する時を持つことが大切ではないだろうか。
*過越の食事から聖餐式へ
最後の晩餐は、ユダヤ人の大切な「種なしパンの祭り」の初日の過越の食事の時だった。(17 節)この祭りは、ユダヤ人たちがかつてエジプトで奴隷だったのが、解放されたことを記念する祭りで、ユダヤ人の心に刻まれた救いと勝利、喜びと感謝の記憶なのだ。この祭りは、主イエス様の御業と御ことばによって、聖礼典の一つである聖餐式に受け継がれる。イエス様ご自身が、ご自分をただ一度だけ十字架上で犠牲にされ人間の罪を取り除いて下さった。主イエス様の聖餐式制定の御ことば(26 29 節)では、御自身を「パン」とぶどうの実からできた物(直接は「ぶどう酒」)に例えて、それを食べたり、飲んだりするように命じている。これは象徴的に、救い主イエス・キリストとの結合、一体化を表している。しかも、それは、「多くの人の罪の赦しのため」である。12 弟子だけではなくて、弟子たちを通して救い主イエス様が証しされる多くの人々を見通しているのだ。救い出されて聖餐式に加わる私たちを、そしてこれから救い出されて聖餐式に加わるであろう求道者たち(未信者たち)を見通して語っておられる。さらに、父の御国で、救い出された一人ひとりにお会いするまで、主イエス様は、ぶどうで作った物は決して飲まない、と語っておられる。逆に読めば、天の御国でお会いする、その時には、大いに喜んで祝杯を挙げよう、という約束なのだ。悔い改めつつ、主の恵みを受け取ろう。