4/14 ヨハネの福音書3章1-15節「御霊によって生まれる」 矢田 紫野 師
背 景
当時の夜の時間帯は現在とは違い街灯もなく歩くのが危険であり、不要不急の用事がなければ外出しない時間帯であった。その時間帯に主イエスに会いにくるのは、ニコデモは人に知られずにどうしても主イエスに会いたかったためであろう。パリサイ人であるニコデモは当時の社会で宗教的権威者の一人であったが、主イエスがなさるみわざを見聞きしてこの方こそまことに神から遣わされた教師と確信したのであろう。この方に是非とも直接話がしたいという真摯な願いが見てとれる。
噛み合わない会話
初対面のニコデモと主イエスだったが、ニコデモと主イエスの会話はどこか話が噛み合ってないように思えるものだった。ニコデモが主イエスを神のもとから来た教師だと知っていると言ったのに対し、主イエスは人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと答える。人の心のうちをご存知の主は、人目を偲んで夜訪問してきたニコデモに、いかにして神の国に入ることができるかという真摯な求めがあることを察したのだろう。そのため即本題に入ったのかもしれないが、ニコデモにはこの歳になって再び母から生まれるということか、と主イエスの返答に戸惑う。
地上の話、霊の話
話が噛み合わないように見える原因、それは、ニコデモは目の前に見える事象をもとに話しているのだが、主イエスは霊の話をしており、それぞれ別の世界の価値観に基づいた話をしているためであると言えよう。ニコデモは主イエスを神に遣わされた教師と確信しつつも、律法厳守というパリサイ人としての価値観からすぐには自由になれない。一方主イエスは、人は生まれつき罪の中にあり霊が死んだ状態のため霊のいのちは新しく生まれなければ得ることができないということを説いておられる。御霊によって生み出されて初めて知ること、見ることのできる世界があり、霊なる神も霊のいのちをいただいて初めて知ることができる。
例えばモンゴルに住んだことのない方にモンゴルの空気感、すなわち暑さや寒さ、匂い、肌触りを伝えることは簡単なことではない。地上に住む人に神の国を伝えることはそれに通じる難しさをはらんだものかと思うことがある。しかし御霊によって新しいいのちをいただくと、御霊はその難しさの壁を乗り越えさせてくださる。
まとめ
新しい霊のいのちをいただいた私たちは、与えられた
永遠のいのちを喜びつつ主と共に歩もう。