4/7 コリント人への手紙第一15章12-19節「キリストの復活に希望がある」 小池 宏明 牧師

イエス様の十字架と復活から20年余り過ぎたコリントにある教会では、イエス様の復活や信徒の死後の復活を否定する信徒たちが出てきていた。
*復活がないなら宣教は空しい
パウロは、キリストの復活を否定するとどういう問題が起こるのかを語っている。14節「そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。」 宣教が空しい、信仰が空しいとは、字のごとく「空っぽ」と言うこと。実体がないこと。パウロは、キリストの復活がなければ、信仰も宣教も空しいもの、無意味になると言う。
*復活がないなら罪の中で滅びている
17節「そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。」主イエス・キリストの復活がないならば、私たちキリスト者の罪の赦しはないことになる。言い換えれば、主イエス様の復活は、私たちの罪の赦しの確かな証拠なのだ。主イエス様の復活は、十字架上で神の呪いを受けられたイエスが神の御子であり、十字架の死が私の受けるべき罪の呪いを身代わりに受けて下さった救いの御業であることの確かな保証なのだ。それゆえ、私たちが主イエス様を信じる時に、私たちの罪が赦され、主なる神様との関係が回復するのである。
*復活がないなら御国の希望なし
18-19節「そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」もし、キリスト信徒の復活や、キリストの復活がないならば、私たち人間は、罪の中にいるままということになる。もしそれがなければ、先に召された信徒はいなくなってしまい、天の御国での再会の望みなどない。自分自身でさえ、天の御国に入る望みがない。
*私たちキリスト者の希望
今日の箇所でパウロは、コリントの教会の中で、死後の復活と十字架で死んだキリストの復活を信じない信徒たちの主張が、自分たちの信仰を空しいものに、望みのないものに、哀れなものにしていることを明らかにしている。逆に言えば、信徒の死後の復活を信じる信仰、キリストの復活を信じる信仰が、キリスト教会の信仰を確かにして、希望あふれる喜びと幸いな人生を与えるものなのである。