6/2 マタイの福音書4 章23 節~5 章3 節「心貧しい者の幸い」 小池 宏明 牧師
今日から、主イエス様が語られた言葉である「山上の説教」を取り上げる。私た
ちに救いの恵みを与えて下さったイエス様がどういうお方なのか、イエス様の言
動を知ることによって分かってくる。そして深い信頼を寄せることができる。
*霊的な貧しさとは
「心の貧しい者」(5:3)とは、直訳で「霊が打ちのめされている者」、「霊のボロ
ボロ状態な者」という意味である。聖書によれば、人間は、肉体と心(精神)、そ
して霊の三重構造になっている。霊とは、神様と通じるところである。しかし、
私たちは、霊の貧しさがあり、しかも、絶望的な貧しさでボロボロ状態であるこ
とに気付いていない。なぜなら、私たちは、肉体を美味しい食べ物で満足させる
ことに関心はあっても、御ことばの欠乏や祈りの欠乏に気付かない愚かな状態に
陥っているからであろう。これは、逆の見方をすれば、神様との親密な関係が欠
乏しているので、食べて満足する方により関心が向くようになっていくのだと、
理解できるだろう。神様とのつながりが欠乏している人間は、実に悲惨である。
人類史の不幸の根本的原因は、神様との関係が切れていることにある。
*幸いな霊的貧しさ
主イエス・キリストは、「幸いなるかな、心貧しい者」と宣言してくださった。主
イエス様が、私たちの貧しさを、ご覧になって「あなた方は幸いだ」と言って下
さった。主イエス様は、悲惨な私たちへの気休めで語っておられるのではない。
主イエス様はこの祝福に満ちた言葉を語るために、十字架の死を選ばれたのであ
る。この十字架のご愛に覆われて、心の貧しさを変えて頂く時にこそ、私たちの
貧しさは「祝福された幸いな貧しさ」となる。主なる神、救い主イエス様に祝福
され、治められてこそ、霊の貧しさ、愛の乏しさが、少しずつ克服されて、主が
こんな貧しい者を用いて下さるという驚きと感謝の思いの中で、ひざまずくよう
に礼拝をささげる者へと変えられる。
自らの愛の無さに打ちのめされて、自らの悲惨さに絶望して、涙するしかない、
そんな私のために、主イエス・キリストは来て下さった。主イエス様は、そんな
私を「幸いだ」とお語り下さり、罪の赦しを、永遠のいのちを、惜しげもなく与
えて、私のすべてを治めて、その御手の中で育んでくださるのである。