6/23 ハバクク書3章17-19節『歌となる神への身もだえ』洪豊和師(土浦めぐみ教会)
ハバクク書3:17-19で、ハバククは、私たちの生存に必要不可欠なものがなく死を覚悟しなければならない状況でも、喜び躍り楽しむことが出来ると告白します。しかも「そういう中にあってもなお力があり、歩み、生きることが出来る」と、ハバククは歓喜のうちに賛美を献げ、その賛美の根拠が「救いの神であられる主なる神様である」と告白をします。
ハバクク書が、他のどの聖書とも違うことは、神に対する猛烈な不服申し立てから始まることです。それは最後の部分の賛美とは真逆の内容です。しかしここから私たちが教えられる大事なことは、信仰とは、真剣であればあるほど、神への嘆きと神への喜びが同伴するということではないでしょうか。
ハバクク書はたった3章の短い書物ですがその重要性は決して小さくありません。使徒パウロはハバクク書の「義人は信仰によって生きる(2:4)」を2度も引用しながらキリスト教信仰の土台を据え(ローマ1:17, ガラテヤ3:11)、ヘブル書も同じ聖句を引用しています(10:38)。ルターも同じ御言葉に魂を打たれて宗教改革を興しました。
第1章でハバククは、この世の状況が全く神がいないかのように思われ、祈りに答えてくださっているという実感がない苦痛を、神に痛烈に訴えます。もちろんハバククは神を信じていますが、その信じる神が人生の現場に表れていないように思えて仕方がないのです。そんなハバククに神様はついに応答されます。しかしそれは彼の期待とは全くかけ離れたもので、イスラエルを完全に滅ぼすことによって、その不正と不義をきれいに処理するというものでした(1:5-11)。さらに納得がいかないのは、神が神らしくなく、全くの悪であるバビロンを用いてイスラエルを滅ぼすというのです(1:12-17)。
私たちもハバククのように、神さま、イエス様を信じていても、残念に思えて仕方がないと言いましょうか、神さまに対して、深く傷つくような時があるのではないでしょうか。ハバククの話は今日を生きる私たちの話でもあります。しかし、ハバククにとっても私たちにとっても、本質的な悩み苦しみは、今直面しているその問題自体ではなく、その問題に対して何の解決も対策も持っていないかのように思えてしまう、また見えてしまう神そのものです。しかしハバクク書の結論は、「しかし」からはじまるように、新しく出会う神なのです。