6/9 マタイの福音書5 章4 節「悲しむ者の幸い」小池 宏明 牧師
先週から、主イエス・キリストが語る山上の説教の中で「八福の教え」と呼ば
れている祝福に満ちた語りかけを聴いている。先週は、「心の貧しい者は幸いです」
から主イエス様の教えを聞いた。今朝は、「悲しむ者は幸いです。」という御こと
ばである。いずれも、幸せの定義をひっくり返すような、革命的な教えが続いて
いる。
*悲しむ者の慰め主
今回の「悲しむ者」とは、愛する者を失った時にも使われる悲しみであり、最
も深い、どん底の悲しみを表す言葉である。私たちは、悲しむ者に対して、「幸い
だ」などと言うことは到底出来ない。「悲しむ者は幸いです。」は主イエス・キリ
スト以外に発することができない言葉である。なぜなら主イエス様こそ、最たる
悲しみの人であったからである。イザヤ書 53 章「受難のしもべ」というメシア
預言の3-5 節には「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知
っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、
彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのため
に刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安を
もたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」とある。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」この言葉は、主
イエス・キリストだけが語ることができ、イエス様だけがこの約束を実現するこ
とができる。主が私たちに全き真実な慰めを与えて下さる。主のもとに立ち返ろ
う。
*主から豊かな慰めを受け取ろう
私たちは、辛いこと、悲しいことの多いこの世で生きている。また、私たちは、
過ちを犯して、自分自身に嘆き悲しむことがある。そのすべてを主の御前に持ち
出して、さらけ出して、祈ろう。
主イエス様こそ、悲しみの人としてこの地上に来られ、罪を犯してしまう者に目
を留められ、死の力を前にして嘆き悲しむ者と共に涙してくださるお方。主イエ
ス・キリストの御前にあって、自分の罪を悲しむ者が、慰めを受けるのだ。
悲しみの人イエス・キリストが、「幸いなるかな、悲しむ者」と招いておられるの
だから、私の抱えている嘆きも、悲しみも、涙も、主イエス様に打ち明けて、豊か
な慰めを受け取って生きよう。