3/22 詩篇51篇1-17節「罪ある者が帰る道」小池 宏明 牧師

受難節も終盤を迎えています。今日は、ダビデが詠った詩篇 51 篇を開いています。こ
の詩篇は、悔い改めの詩篇の一つに数えられています。
*ダビデの大罪
この詩篇は、ダビデ王が人妻のバテ・シェバと姦淫したことに端を発します。しかも、
バテ・シェバの夫ウリヤは、イスラエル王国を外敵から守るために最前線で戦っている忠
実な兵士でした。部下が戦地で命懸けの戦争をしている間に、その妻と姦通したのです。
さらに、この大罪を隠すために、ダビデ王は、ウリヤの属する部隊を指揮する将軍に命じ
て、ウリヤをわざと最前線に出して戦死に見せかけて殺させたのです。姦淫、殺人、偽証、
罪に罪の上塗りをするダビデ王には、幸いにも親友とも呼べる預言者ナタンがいました。
預言者ですから神のことばを取り次ぐ人物です。主なる神様は、全部を見通しておられま
した。ナタンは、ダビデが隠している罪悪を真っ向から告発し、暴露して悔い改めに導い
たのです。(サムエル記第二11-12章)
*原 罪
さて、ダビデは、自らの大きな犯罪を指摘されて、悩み、苦しみ、血へどを吐くほどの
悔い改めの祈りをささげ、自らの罪の本質に迫っていきます。5 節「51:5 ご覧ください。
私は咎ある者として生まれ 罪ある者として母は私を身ごもりました。」人間の罪の性質は、
生まれながら、母の胎内に宿った時から始まっているのだ! という深い洞察を前に、私
たちは、何の反論もできないのです。アダムの堕落以来、人間の存在自体が、創り主なる
神様の御心に叶わないのです。アダムの罪、創り主なる神様の存在を自覚することなく生
きているという「原罪」の影響を、強く受けているのが、私たち人間なのです。
*罪ある者が帰る道
皆さん、自分の本質的な罪に気付いたならば、すなわち、創り主なる神様を意識するこ
となく、自己中心で、我が強く、自分勝手に生きていることに気付いたならば、立ち帰る
道、救いと解放の道があることを知ってほしいのです。キリストの救いの御業を仰ぎ見ま
しょう。誰のために、神の御子イエス・キリストは十字架の道を選ばれたのでしょうか。
私たちが、自分の力や努力、精進では決して聖めることのできない原罪を解決するために、
赦すために、自ら犠牲になられた主なる神、イエス・キリストの元に立ち返りましょう。