4/6 マルコの福音書15 章21-37 節「見捨てられる苦しみ」 小池 宏明 牧師
今、世界中のキリストを中心とする教会では、受難節(レント)の期間
を過ごしています。今日は、十字架上のイエス様の七つの言葉の内の一つ
を取り上げます。
*父なる神様は御子イエスを見捨てた
マルコの福音書 15 章 34 節「15:34 そして三時に、イエスは大声で叫
ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、
どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
神の御子であるイエス様が、父なる神様から見捨てられることがあるの
でしょうか。イエス様はどうしてこのように叫ばれたのでしょうか。この
叫びは、イエス様が、父なる神様から本当に見捨てられた苦しみを意味し
ます。父と子と聖霊なる神様は、三位一体の神です。ですから、本来は、
父なる神様が子なるキリストを見捨てるはずがありません。見捨てられる
べき存在なのは私たちなのです。しかし、私たち罪深い者を救い出すため
に、イエス様は自ら身代わりになられたのです。父なる神様は、罪深い私
たちのために、愛する独り子、イエス・キリストを十字架上でささげもの
にしてまでも、私たちを愛して下さったのです。私たちは、イエス様が父
なる神様から見捨てられたことによって、神様から見出して頂いたのです。
救い出して頂いたのです。
*見出された私たちの応答は
私たちは救い出された者として、この恵みにどのようにお応えしたらよ
いのでしょうか。
第一に、イエス様が、十字架上で神様から見捨てられた苦しみは、私が
神様から見捨てられないためであったことを認めて、主イエス様に、真心
からの感謝をささげることです。
第二に、私たちが、キリストの受難を覚えて、キリストの受難に従って
いくことです。主イエス様は、「自分の十字架を背負ってわたしについて
来なさい。」と私たちを招いておられます。キリストの受難は、私たちの
周りにある苦しみ、困難、痛みから、私たちを引き離して下さいます。私
が受けている現実的な苦痛は、実は、主なる神様が共に受けておられる苦
しみだからです。
「私が苦しんでいる時に主イエス様も共に苦しみ、その苦痛を一緒に担
っていて下さるのだ」「私は主と共に闘っているのだ」と苦しみに遭った
幸いを覚えましょう。