7/28 マタイの福音書5 章10-12 節「義のために迫害されている者の幸い」小池 宏明 牧師
八福の教えの最後は迫害されている者の幸いです。原語であるギリシア語の聖書では「迫
害する」とは「追う」とも訳せる言葉です。「追い払う」とか「追い出す」ことがまさに「迫
害する」ことで、暴力や言葉によって弾圧したり、排斥したりすることを意味します。
*キリスト者は理解されないことが多い
なぜ、主イエス様は、このように迫害されている者を八つの祝福の中に入れられたので
しょうか?それは、主イエス様は、クリスチャンたちが、キリストのゆえに迫害を受ける
ことがあることを知っておられ、この祝福の言葉を通して、クリスチャンたちを励まし、
力づけようとされたからです。本当にクリスチャンとして信仰をもって生きようとする時
に、人々から誤解されたり、理解されなかったり、悪口を言われたり、陰口を叩かれたり
など、そのような迫害は付いて来るものなのです。クリスチャンは、この世の人々とは違
った価値観をもって違った生き方をするわけですから、この世の人々が、異質な者を追い
出したいという思いをクリスチャンに向けるのです。止むを得ないことなのかもしれませ
ん。
*迫害を大いに喜べる理由
マタイ5 章12 節、キリストのために悪口や中傷、辱めを受ける時に、「喜びなさい。大
いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前に
いた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」主イエス様は、なぜ迫害を喜びな
さいと言われるのでしょうか?それは、天の御国において大きな報いがあるからです。天
の御国は、地上の歩みを終えてから行く所であると限定して考える必要はありません。地
上においても、天の御国は始まっています。神様がご支配なさる領域が天の御国なのです。
主なる神様の御手の中にある時、天の御国にいるのと同じです。ですから、死んだら天国
に行けるから、そこまでは我慢しなさい、という教えではありません。地上にあって迫害
があるにも拘らず喜ぶのではなく、迫害のゆえに喜ぶのです。また、迫害を受ける時、昔
の預言者たちが経験したことと同じ恵みを期待することができます。それで喜ぶのです。
主なる神様はキリストのために労苦する者、悪口を言われ、辱めを受けている者を慰め、
励まして下さるのです。私たちの闘いは孤独ではありません。主にある兄弟姉妹がいます。
主なる神様ご自身がいつも共に居て、優しく関わり、豊かな慰めを与えて下さいます。で
すから大いに喜んで、主の道を全うしようではりませんか。