9/27 ローマ人への手紙6章1-11節「罪に対して死に、神に対して生きる」小池 宏明 牧師

パウロは「罪が増すところに恵みも満ちあふれる」と言い、「恵みを受けるため罪
にとどまった方がよい」という屁理屈を退けます。神様の恵みは神様との平和だけで
なく、私たちを罪から解放し聖さの中に生かす「聖化」の恵みでもあるからです。
*罪に対して死んでいるクリスチャン
パウロは、「恵みが増すために罪を犯し続ければよい」という考えを「決してそん
なことはない」と強く否定します。信じる者はすでに「罪に対して死んだ」、すなわち
「原罪」の支配から分離された者です。水中で長く呼吸できないように、救われた者
は罪の中に安住できず、キリストの赦しを知ったゆえに罪を憎み、そこから離れたい
と願う者へ変えられたのです。バプテスマは、儀式そのものが人を生まれ変わらせる
のではなく、信仰によってキリストと一つにされ、その死と葬りにあずかり、復活の
いのちに生きることを示しています。古い自分はキリストと共に死に、私たちの人生
は、もはや自分のものではなくキリストのものです。ですから、自分を罪や悪魔の道
具とせず、神のしもべとして用い、日々の楽しみさえ主にあって喜び、主の栄光を表
すために生きたいのです。
*新しいいのちで生きているクリスチャン
クリスチャンは土の器でありながら、その内にキリストのいのちを宿し、自分では
なく主イエス様を証しする器です。古い人はキリストと共に十字架につけられ、罪の
奴隷から解放されました。ゆえに「もはや私が生きているのではなく、キリストが私
のうちに生きておられる」と告白し、キリストと共に生きるのです。ローマ6章11
節が示す「罪に対して死に、神に対して生きている者」という恵みのアイデンティテ
ィを、私たちは自分の事実として認める必要があります。それは、神様に顔を向け、
何事も人にではなく主に対して行う歩みです。献身は牧師や宣教師だけのものではあ
りません。家庭、仕事、学び、奉仕など日々の生活で、体も心も考えも時間も神に献
げることが献身です。私たちは手足を不義の道具として罪に献げず、死者の中から生
かされた者として、自分自身を義の道具として神に献げます。小さな事でも「イエス
様ならどうなさるか」と問い続け、御心を喜んで行いましょう。私たちは律法や罪の
下ではなく恵みの下にあります。土の器が弱くても、その内にある救い主キリストと
いう宝が輝き、主が私たちにしてくださったことが人々に見える歩みを目指すのです。