2/2 マタイの福音書7 章1-5 節「自分の目に梁がある」 小池 宏明 牧師
今日の箇所は、主イエス様が、語られた山上の説教の一部です。主イエス
様は、つねに、私たちの目線を天の父なる神様に向けさせようと語っておら
れます。
*主の裁きを畏れよ
1 節「7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」「さば
く」という言葉は、告訴する、見分ける、区別する、などという意味があり
ます。これは、裁判官が憲法や法律に基づいて、判決を下すことを否定して
いるわけではありません。ここで、イエス様が語っておられる「さばく」と
は、習慣的に人の粗探しを好んですることを言います。そういう人は、主な
る神様のさばきを受けることになります。(2 節)他人のうわべを見てさばく
なら、神様もすべてを見通して「あなたをさばく」、「あなたを量る」と厳し
く指摘しているわけです。これは、恐ろしいことです。畏れをもって主に立
ち返りましょう。
*目の中の梁を取り除きなさい
3 節のように、目の中の「ちり」と目の中の「梁」という極端な対比は、
私たちの罪の大きさと赦しの絶大さを指し示しているでしょう。しかも、主
は、まず自分の目から梁を取り除きなさい、と命じられています。梁が取ら
れたきれいな目で、人の目にあるちりを、今度は正しく見て、取り除けるよ
うになるのです。他人の罪を本当に正しく見て、見極めて、取って差し上げ
るための視力、愛の視力を回復するためにこそ、「自分の目の梁」を取り除か
なければなりません。主イエス様は、私たちの目から大きな罪の梁を取り除
くために救いの道を開いて下さいました。主イエス様が歩まれた苦難の道は、
私の目の梁という十字架の丸太を背負って歩まれた道なのです。
*主に救われた者として
私たちキリスト者は、罪赦されて、感謝と喜びの日々が与えられています。
それゆえ、私たちは兄弟姉妹として互いに許し合うのです。ひとりでも多く
の人々の目から罪のちりが取り除かれて、澄んだ眼差しで、主なる神様を見
上げて生きることができるように、私たちは隣人を愛する労苦をさせて頂く
のです。使徒パウロの言葉を受け止めましょう。エペソ 4 章 31-32 節「無慈
悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て
去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリスト
においてあなたがたを赦してくださったのです。」救い主、イエス・キリスト
は、罪のゆえに目がふさがれている私たちのために、罪人を救って赦すため
にこの世に来られたのです。