3/24 説教要旨マタイの福音書27 章32 50 節「十字架上で示された主の愛」 小池 宏明 牧師
今朝は、棕櫚主日を迎え受難週の始まりである。ローマ皇帝、ポンテオ・ピラトがユダヤ地方を治めていた時代、彼の権限のもとで、主イエス・キリストは十字架で処刑されることになり、直ちに実行に移されることとなった。
*十字架を負わされたクレネ人シモン
徹夜で、裁判や審問を受けた主イエスは、十字架にかけられる前にローマ兵によって鞭で打たれ、激しい罵倒を受けた。主は十字架の横木を担ぐことができなかった。それでクレネ人シモンが代わりに主の十字架を背負って処刑場のゴルゴダに向かうことになった。(32 節)十字架を背負ったシモンにとっては、救いを頂くきっかけになったことであろう。主イエス様は「自分の十字架を負って、わたしについて来なさい」と招かれた。今、苦しみと悲しみに満ちている方は、主イエス様と似たような体験をさせて頂いていると受け止める時かもしれない。他の誰にも理解してもらえないとしても、ただお一人、主イエス様だけは、その苦しみや痛みを知って下さる。そのように受け止めるなら、私たちの信仰が深められ、強められていく。
*主イエスの受難と愛
イエス様が受けられた苦しみは、そのご生涯の最後、十字架の時だけではない。地上に降誕されてから、墓に葬られるまでのすべてにおいて苦しみを受けられた。神の御子であられるお方が、人間と同じ肉体を取って、この地上に来られること自体、とてつもない苦難である。地上に生まれてすぐに、ヘロデ大王に追われて、エジプトまで逃げなければならなかった。たくさんの無理解や迫害にも遭われた。十字架の時、主は全身で苦痛を受け止められた。ついには、神の御子、主イエス・キリストが、父なる神様から見捨てられるという絶望を体験された。主イエス様は、肉体の苦しみとともに、魂の苦しみをも受けられた。それは、私たち罪人に対する神様の怒りを身代わりに受けて下さったからである。それゆえ、それを信じる私たちの体も魂も、全人格的に救い出されている。主イエス様は、自ら進んで、十字架の道を、心身共に苦しみ痛めつけられる道を味わい尽くされた。それは、ヨハネの手紙第一4 章10 節のとおりである。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
主イエス様の深いご愛に応答して、救い主イエス様に聴き従う私たちでありたい。