7/7 マタイの福音書5 章7節「あわれみ深い者の幸い」 小池 宏明 牧師

今朝は八福の教えの中で「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを
受けるからです。」という主イエスの約束です。
*あわれみの意味
7節の「あわれみ深い」は、その人の身になって考えて、感じて、その人のため
に行動することを意味する言葉です。また、聖書の中では、主なる神であられる
イエス様がすべての点で人間と同じようになられたことを示す時にも使われてい
る言葉です。さらに、聖書において「あわれみ深い」という言葉は、もともとは、
母の胎を表す言葉から出ているとも言われています。子宮を震わせるような思い
で、わが子を思う母親の愛情を表しているのです。
*あわれみは主ご自身のご性質
しかし、私たち人間の「あわれみ深さ」には限界がありますし、偏りがあります。
やはり「あわれみ深さ」は、主なる神様ご自身のご性質なのです。もしも、神様
のあわれみがなかったとしたら、私たちはどうなるでしょうか? 私たちは誰一
人生きることができません。主のあわれみが無ければ、私たちは、ここに存在す
らしていないのです。遠い昔に、人類は神様からの怒りのゆえに滅ぼされてしま
っていたかもしれません。
*無慈悲な家来のたとえ
主なる神様のあわれみは、マタイ18章の無慈悲な家来の例えによっても明らか
です。この例えは以下のとおりです。ある国の王様が、自分の家来たちと金銭的
な清算を始めます。まず、多額の借金をしている家来が連れてこられました。そ
の借金の額が一万タラントです。今日の日本円に換算すると六千億円に当たりま
す。毎月100万円ずつ返したとしても5000年かかるとんでもない大金です。
しかし、王様は家来の懇願に応えてあわれみ深さを示して全額を免除しました。
ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出
会い、首を絞めて、『借金を返せ』と迫ったのです。百デナリは約100万円に当
たります。6千億円の60万分の1になります。この例えのように、私たちは、
主なる神様の御前にあって、たくさん赦されて救い出されてきたのですから、兄
弟姉妹を何度でも赦すこと求められるのです。
私たちは、主なる神様が私たちを愛して無限大にあわれんでいてくださることを
覚えて、互いにあわれみ深く愛し合い、祈り合う群れへと成長したいのです。